
どうも小林です。
現在放送中のNHKドラマ「風、薫る」を皆さんはご覧になっていますでしょうか?
看護師という国家制度が整備されていない時代にトレインドナース(今でいう普通の看護師ですが、当時は教育を受けた看護師が少なく、それに対して教育を受けた看護師をこう呼びました)を目指す二人の女性を描いたドラマなのですが、、、
私も医療の仕事をしているのでかなり共感できる部分があります。
学生時代に厳しい実習で帰りの電車内で何度も泣いていたことや、勉強しなければいけないことが多く毎日のように朝方まで勉強していたことを思い出してしまいます。
正直に言うと最初に看取った患者さんの名前と顔も既に忘れてしまいました。
それでも、夜中に当直室から病室まで暗い病院の廊下を全力で走った時に見た非常口灯の緑色の明かりが目に焼き付いています。
初めてで戸惑っていた私に先輩が「すぐに慣れるし、いちいち反応していたらこの仕事は成り立たない」と言われたのを覚えています。
今では年齢的に中堅の域に差し掛かり、正直看取りで心が動くことはもうほとんどありません(医療職者の宿命だと思います)。
それでもNsになるために心を砕く二人の人物を見ているとドラマとは言え、心に来るものがあります。
今回は、「風、薫る」の主人公たちのモデルになったと言われる、大関和(おおぜき ちか)女史と鈴木雅(すずき まさ)女史についてまとめてみました。
最後までお読みいただけると幸いです。
大関和の生涯
大関和(1858~1932)は、日本で最も早い時期に近代的な看護教育を受けた「トレインドナース(正規教育を受けた看護師)」の一人であり、日本の看護制度の礎を築いた人物です。その功績から「明治のナイチンゲール」とも呼ばれています。
1. 幕末の武家に生まれる
大関和は安政5年(1858年)、現在の栃木県大田原市にあたる黒羽藩の家老・大関家に生まれました。生まれた時代は幕末で開国が進む中、日本が大きく変わろうとしていた激動の時代でした。
武家の娘として育った和は、18歳頃に結婚し一男一女をもうけます。しかし後に離婚し、自らの力で生きる道を選びます。女性が働くこと自体がまだ珍しい時代においては非常に珍しい決断でした。
2. 上京と運命の転機
離婚後に上京した和は、キリスト教牧師の植村正久に学びます。
そこでキリスト教の思想や西洋文化に触れ、
- 人を助けること
- 社会に奉仕すること
- 女性も学び働くこと
の大切さを知りました。これが後の看護人生につながります。
3. 日本初期の看護学校へ
1887年、和は桜井女学校附属看護婦養成所の第1期生として入学しました。
ここで和は、ナイチンゲールの流れをくむ看護教育を受けます。
特にイギリス人看護師アグネス・ヴェッチから、
- 衛生管理
- 病室の換気
- 患者観察
- 感染症対策
など近代看護の基本を学びました。
当時の日本ではまだ「看護師」という専門職がほぼ存在していなかったため、和たちはまさに開拓者でした。
4. 病院現場で活躍
卒業後は帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院の前身)で外科看病婦取締を務めます。
さらに新潟県上越市の知命堂病院では初代看護婦長として働きました。
看護の現場だけでなく、病院全体の衛生管理や看護教育にも取り組みました。
大関和の功績~看病から看護の時代へ~
功績① 日本の近代看護を確立した
最大の功績は、
「看病」から「看護」へ変えたこと
です。
それまで病人の世話は家族や付き添い人の仕事でした。
しかし和たちは、
- 専門知識を学ぶ
- 技術を身につける
- 科学的に患者を観察する
という近代看護の考え方を日本に根付かせました。
功績② 看護師の育成
和は自ら看護師として働くだけでなく、後輩の教育にも力を注ぎました。
知命堂病院の養成所などで講師を務め、多くの看護師を育てています。
現在の看護学校の先駆けともいえる活動でした。
功績③ 感染症対策を広めた
当時は
- コレラ
- 赤痢
- 腸チフス
などの感染症が猛威を振るっていました。
和はナイチンゲール方式にもとづき、
- 手洗い
- 清掃
- 換気
- 衣服の清潔保持
- 排泄物の適切な処理
を徹底しました。
現代では当たり前の衛生管理ですが、当時としては非常に先進的でした。
功績④ 看護師の社会的地位を向上させた
明治初期、看護婦は決して高く評価される職業ではありませんでした。
和たちは、
- 専門教育を受ける
- 倫理観を持つ
- 技術を磨く
ことで、
「看護は専門職である」
という認識を社会に広めました。
功績⑤ 看護団体の設立
東京看護婦会の会頭を務めるなど、看護師同士が学び合う仕組みづくりにも尽力しました。
さらに1909年には「大関看護婦会」を設立し、生涯にわたって看護教育の発展に取り組みました。
なぜ「明治のナイチンゲール」と呼ばれるのか
フローレンス・ナイチンゲールが行ったことは、
- 看護教育の整備
- 衛生管理の普及
- 看護師の専門職化
でした。
大関和も日本で同じ役割を果たしたため、
「明治のナイチンゲール」
と呼ばれるようになりました。
一言でまとめると
大関和は「日本の看護師という職業を作った先駆者の一人」です。
武家の娘として生まれ、離婚という逆境を乗り越え、日本初期の看護教育を受け、看護師の育成・感染症対策・看護制度の整備に生涯を捧げました。その努力があったからこそ、現代の日本の看護師制度へとつながっているのです。
鈴木雅の生涯

1. 幕末の武家に生まれる
鈴木雅は安政4年(1857年)に生まれました。
旧姓は加藤で、幕府に仕える旗本の家系に育ったとされています。父の加藤信盛は幕末の動乱を生き抜いた武士でした。
幼少期から教育を受け、共立女学校やフェリス女学校で学んだと伝えられています。
2. 夫との死別
結婚後、二人の子どもをもうけました。
しかし夫・鈴木良光を早くに亡くし、幼い子どもを抱えた未亡人となります。
当時の女性にとって自立して生きることは非常に難しい時代でしたが、雅は新しい職業である看護の道へ進むことを決意しました。
3. 日本最初期の看護教育を受ける
1886年、大関和とともに桜井女学校附属看護婦養成所の第1期生として入学します。
ここでイギリス人看護師アグネス・ヴェッチから、
- 衛生管理
- 患者観察
- 感染症対策
- ナイチンゲール方式の看護
を学びました。
鈴木雅は英語力が高く、ヴェッチの通訳も務めたとされています。
4. 帝国大学病院で活躍
1888年の卒業後は、現在の東京大学医学部附属病院の前身である帝国大学医科大学附属第一医院に勤務します。
そこで看護婦取締(現在の看護師長・看護部長に近い役職)を務め、病院看護の近代化に尽力しました。
鈴木雅の主な功績~現代地域医療の先駆者~
功績① 日本初の訪問看護システムを作った
鈴木雅最大の功績は、
病院の外へ看護を持ち出したこと
です。
1891年、鈴木雅は「慈善看護婦会」を設立しました。
これは現在の訪問看護ステーションの原型ともいえる組織で、看護師を患者の自宅へ派遣する仕組みでした。貧しい患者には無料で看護を提供することもありました。
つまり、
「病院に来られない患者にも看護を届けよう」
という発想を日本で初めて制度化した人物なのです。
功績② 東京看護婦会の創設
慈善看護婦会は後に東京看護婦会へ発展します。
これは看護師同士が学び合い、仕事を紹介し合い、技術を高めるための団体でした。
現代の看護協会の先駆けともいえる存在です。
功績③ 東京看護婦講習所を設立
1896年には東京看護婦講習所を設立しました。
ここでは多くの看護師を育成し、日本全国へ専門知識を持つ看護師を送り出しました。
功績④ 看護を専門職へ押し上げた
明治時代の看護は、
- 家族の世話
- 奉仕活動
- 雑務
と見なされることも少なくありませんでした。
鈴木雅は、
- 教育を受けた看護師
- 技術を持った専門職
- 社会的に必要な職業
という考え方を広めました。
功績⑤ 女性の社会進出を切り開いた
夫を亡くしたシングルマザーでありながら、
- 子育て
- 仕事
- 教育活動
を両立しました。
これは当時としては非常に珍しく、多くの女性に影響を与えました。
大関和との違い
二人は同期の看護師でしたが、それぞれ得意分野が異なります。
| 人物 | 主な功績 |
|---|---|
| 大関和 | 病院看護・看護教育の発展 |
| 鈴木雅 | 訪問看護・看護師派遣制度の創設 |
大関和が「病院の看護を育てた人物」だとすれば、
鈴木雅は
「看護を地域社会へ広げた人物」
といえるでしょう。
一言でまとめると
鈴木雅は「日本の訪問看護の母」とも呼べる存在です。
夫との死別という困難を乗り越え、日本最初期の看護師として活躍し、看護師派遣制度や看護教育機関を創設しました。その功績は、現在の訪問看護・在宅医療・看護師養成制度へと受け継がれています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
今回は引用させていただいたサイト様が多かったので以下にリンクでまとめさせていただきます。
皆様もぜひご参照ください。
前回記事→日本の苗字の歴史について|なぜ私たちは苗字を持つようになったのか?苗字についてまとめてみた






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